古代
|
| ~1022年 |
ゼーフェルトの高原地帯が歴史的な意味を持つようになったのは、中世にローマの軍用道路が造られてからといわれている。ゼーフェルトの峠は、イタリアのポー低地からロマンシュの首都であったアウグスタ・ヴィンデリコールム(今のアウクスブルグ)へ向かう最短ルートとして越えなくてはならい道だった。その後、このアルプス道をゲルマン民族が南方へ下り、徐々に森林地帯はバイエルンの貴族らによって定住されていく。後、シャーニッツに修道院が建設され、その地域全体ャーニッツ森と呼ばれるようになる。
|
中世
|
| 1022年 |
ゼーフェルトの「湖畔に建てられた小さなチャペルと高原地帯の北側にそびえるフェステ・シュロッスベルグ城」が初めて正式にインスブルック郊外のヴィルテンの書類に記録される。
|
| 1263年 |
オズワルド巡礼教会が完成。フェステ・シュロッスベルグ城がバイエルンの騎士からチロル伯爵領に返されたときに建てられた。城の土地は耕作用にフレーガー家に譲渡され、その子孫が後の高慢な騎士オズワルド・フォン・ミルザーとなる。伝説によるとオズワルドは、1384年3月25日の復活祭のミサ中に、通常よりも大きな聖餐式のパンを要求したため神が怒り、オズワルドの足元が崩れたといわれている。地面は再びパンがオズワルドの口から取り出された時に固まったとされ、今でも凹んだ地面とオズワルドが口にした聖餐式のパンを見ることができる。このゼーキルヘルの伝説こそがゼーフェルトを最も有名な巡礼地へと発展させた。 |
| 1487年 |
領邦君主とヴェネチア人の抗争により、ゼーフェルトの峠は交通量が増加し、以前により増して巡礼地や商人の通過点として栄えるようになる。
|
中世末期・ルネッサンス期
|
| 15世紀~16世紀 |
チロルの政権を握っていたジグムント(富貨公)はゼーフェルトを好み、村の南側の収益は遮断棒を境に州政府ではなくゼーフェルト教区のものと認め、現在のゼーキルヘルの近くに養魚のために湖を作らせる。皇帝マクシミリアン1世もこのころゼーフェルトで狩猟を楽しんでいる。
|
近世
|
| 1618年~1648年 |
30年戦争が始まるとともに、ゼーフェルトの経済を安定させていた巡礼者の数が激減する。 |
| 18世紀後半 |
ヨーロッパ中がナポレオン軍の勢力によって混乱する中、皇帝ヨーゼフ2世によりオーストリア全土の修道院が廃止される。
|
近世・現代
|
| 1808年 |
プレスブルグの平和条約でチロルはバイエルン王国に併合される。ゼーフェルトの修道院はバイエルン州の土地として売却され、個人の所有地(今のホテル・クロースターブロイ)となる。
|
| 1809年 |
ゼーフェルトは再びバイエルン軍とフランス軍に攻撃され、牧師館、郵便局など16棟が延焼。そしてブレンナー峠とアールベルグ鉄道の開通によって、徐々にゼーフェルト峠を越すルートの利用が減っていく。
|
| 1920年~ |
ゼーフェルトの便利な立地条件を利用し、美しい高原地帯を夏と冬のリゾート地として開発する動きが始まる。
|
| 1964年・1976年 |
2度の冬季オリンピックでゼーフェルトはノルディック種目の会場となる。現在でもノルディック種目のワールドカップや世界選手権などがゼーフェルトで開催されている。
|
| 1970年代~現在 |
アクセスの便利さ、美しいアルプスの山と湖、設備の整った宿泊施設、そして現地の人の心温かいホスピタリティーがゼーフェルトを、ヨーロッパを代表する高級リゾート地へと発展させる。80年代から数多くのVIPが集まるようになり、ドイツの有名な歌手やバンド、スポーツ選手などがゼーフェルトで休暇を楽しんでいる。
|